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資本主義を否定する愚かな人達へ告ぐ

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    私が経済学の歴史を学んでわかったことは「資本や貨幣に逆らうのはやめた方がいい」ということです。かのマルクスは大英図書館に30年以上ひきこもってあらゆる書物を読み込んだ上で、資本論を書きました。いわく「あぁ資本がすべてのみこんでゆく、人々の労働さえも『商品』になってしまう。人は機械化され搾取され匿名のものになってしまう…」そして人道的・倫理的な観点からその世界を否定した(マルクスの主張の本質はもちろんそれではないけれど、当時の人々はこのように読み取った)。古今東西のあらゆる経済学者は、あらゆる書物を読み、学び、思考した上で最後に必ず“日和る”ように思えます。アダムスミスしかり、ミル、ハイエクしかり、そしてあのケインズでさえも「資本にあらがう」ことを考えるのです。最近ではジャックアタリやピケッティもそう。メディアも含め倫理的・人道的主張へと論を落ち着かせようとするように私には思えます。なぜならそれこそが彼らが経済学者になる理由だからです(私もそうです)。しかし残念ながら資本を否定したまさにそのタイミングに彼らの学問は死ぬのです。それまでのどんなに精緻な分析も定量的解析も深遠な洞察も無に帰するのです。


    経済の論点は、いつも同じです。すなわち格差の問題、そしてこの資本がすべてを飲み込んで画一化して無機化してゆくという点です。このどちらも本質的には同じ問題です。それは、我々が有機的だと思っているものが無機化することの問題です。格差は、全体論として人間関係の断絶によって社会の危機となり、個別論として人の生命の危機になり、ということです。今の話題は、AIによって人々がまた仕事が奪われるんではないか、という不安でしょうか。これも産業革命から同じです。あるいはずっと繰り返している金融資本主義によってお金が暴力的に実態経済、生活経済を脅かすということかもしれません。それも中国では管氏の時代から、イタリアでも13世紀の商業金融から変わってない。その破綻の周期も年々短くなっており、リーマンショックから7年経った今、不安が募ります。

    いずれにせよ、この世界は未来永劫に資本の波から逃れることはできません。繰り返しになりますが私が経済学を学んで悟ったことは、資本を否定することの愚かさでした。貨幣とその蓄積である資本は、数字というもっとも汎用的、逆に言えば抽象的・匿名的な財の形をとった完全言語です。その汎用性ゆえに、人々の最終的な欲求はこの究極の財である貨幣の獲得に向かわざるを得ません。

    その上で人はどうあるべきか、なにをやるべきか?それは3つだと私は思います。

    1、資本の波を食い止める(規制)
    2、飲み込まれた人を助ける(福祉)
    3、新たな有機的を発見する、創り出す

    です。
    1と2は、政府や行政、NGO,NPOが地球規模でやっていることです。この資本を食い止める行為は中世で言えば城を作り国民を護る行為です。

    しかしそれ以上に資本を使ったビジネスが世界を無機化してゆくスピードの方が早いのが現在です。ですから、現代を資本主義だとか社会主義がよいとかいうのは馬鹿げていて、資本優位性社会主義時代と言うべきです。資本 〉社会、ということです。

    ビジネスとは本質的に、無機化する行為です。すなわち、標準化によってプロセスを単純化し、画一化によって商品を匿名化し、中毒化によって顧客の生命を無機化することです。ビジネスとは端的に言えば、「標準化・画一化・中毒化」することなのです。貨幣と資本という切断機によって、有機物を無機物に変える行為です。これを冷静に見据えた上で、人は、3つ目の、あらたな有機的を発見する、創造する行為に向かうのです。

    それには、4つの方向があります。

    愛(関係)・国語
    悟(霊性)・社会(倫理、道徳)
    土(自然)・理科
    天(知識)・算数

    それぞれの方向に有機物のフロンティアがあります。だから基礎4教科が大事です。(これは前のエントリで書きました)
    ビジネスとはそれらをみつけ無機化してゆきます。

    たとえば、
    愛では、SNSは関係性を細切れにして可視化することで無機化し利益を得ます。婚活・恋活の関係性獲得支援ビジネス、ライザップ、ざわちん、Instagramの承認獲得支援ビジネスも同様です。

    悟は、宗教組織化、ヨガやマインドフルネスなどのラベル化によって無機化され商業化されています。(ちなみに今年は商業化しすぎた宗教の不祥事が相次ぐと私は予測します)

    土は、自然が産みだす有機物、すなわち食べ物やエネルギーをもたらしますが、食品ビジネスはそれを無機化することです。これもオーガニック農業やバイオ栽培の形でさらに進展するでしょう。昔は新大陸の発見と植民地化でした。

    天(知識)は、教養・知識・情報の加工、流通です。メディアや学校がこれにあたります。膨大な時間の消費を伴います。キュレーション、ゲーミフィケーション、習い事、情報中毒の時代です。

    さて、なんども私が言いたいのはこれらの無機化することがよくないとか、そういうことではないです。

    そうではなくて、圧倒的なスピードとパワーで無機化する時代に、有機化創造に焦点を当てて生きることです。

    大切なのは、以下の公式です。

    豊かさ = 有機物 − 無機化

    つまり、無機・有機の「差」が余裕であり、うるおいとなるわけです。
    都会で稼いでいても(無機化力が強くても)、有機性、たとえば関係が薄かったり、自然や食、マインドの安定がなければ豊かでないし、逆に、無機化するパワーが弱くても有機性の弱い土地はやはり豊かではない。

    稼げばいい、穏やかであればいい、という一元的な考えでなく、有機物、無機化のバランスの中に、動的な生命としての豊かさがあるということです。

    まとめます。

    1つ。資本や貨幣を否定することは無価値であること。
    2つ。有機物の発見と創造に尽くすこと
    3つ。生活経済において有機・無機の調和を心がけること

    これから詳しくこのことについて書いて行きます。


    東京大学およびアカデミズムの希望と憂鬱

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      東京大学およびアカデミズムについて
      さきほど東大に修士論文を出してきました。ここ2ヶ月くらいは、外出せず、家に缶詰で、寝るか、起きている時は文献を読むか論文を書くという孤独な生活でした(といっても、基本、僕はいつも寝ているのだけど。。)

      そもそも大学院にあらためて行くことになったきっかけは当時付き合ってた子が、「私、博士課程に行く!」というので、「ずるい、それじゃ僕も行く」という軽いのりでした。当時、僕は社会ですでにたくさん仕事も事業もやってきていたし、本も書いていたから、いまさら東大を受験し、大学院に初学者として行くのはすごく恥ずかしかったし、人にも言いにくかったけど実際にやってみて本当に良かったと思います(もちろん、事業もあり真面目には通っていなかったけど)

      第一に、古典と格闘することのマゾ的快楽。普段、140文字のつぶやきとfacebookでシェアされる「まとめ情報」で生きている自分のような人間にとって、カビの生えた図書館で古典に10時間向き合うの日々は最初は苦痛この上ない。1日目は3ページしか進まない。でも7日目には50ページ読めるようになる。1ヶ月経つと100ページ読める。でも一回読み終えてもやっぱりわからない(^_^;)。しかし3回読むとじんわりと輪郭が見えてくる。そして、熟成の期間を3ヶ月経て、ようやく本質がみえてくる。もちろんネットが世界に張り巡らされ、ドローンが飛び交い、3Dプリンタで物質の転送ができるこの時代、いまさらマルクスやメンガーの経済学なんて「(まとめ的な)結論」から言えば現代に合わないしそんなことは言うまでもない。しかし、時代背景を含めた彼らの思考の深み、思考過程、背景にある信念、過去の歴史と人間の思想の変遷に対する深い理解を知るほど自分自身も安易に言葉を紡ぐことが憚れるようになる。読めば読むほど、学ぶほどに、自分は何も本質がわかっていないということを嫌というほど思い知らされる。なぜ、自分にはこの書いてあることがわからないのか?(笑)と無知と無能を思い知らされ、そして今までの自分の考え、著してきたことの浅はかさを恥じることになる。研究者は緻密な言葉を丁寧に使い、豊富な語彙をもちいて正確な表現をする。論理と数学を駆使して再現性のある事実を語る。独善的なビジネス書が膨大に出版される今だからこそ、古今東西の古典、文献と論文を読まなければならないと思い知らされるのだ。

      第二に、アカデミズムという一つの生態系に属するという心地よさを味わうこと。これはガウディのサグラダ・ファミリアの建築に従事している職人のような一体感覚に近いかもしれない。いつ終わるかわからない壮大な一つのものを皆で作り上げてゆくことのなんとも形容しがたい幸せな感覚を味わうことができるのがアカデミズムの妙味だ。たとえば東京大学の倫理規定はこちら(http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400006403.pdf)。ここからわかるように人類全体で一つの知の体系を作り上げてゆこうという公共精神が伺える。その目的の中では自分という個人の存在なんて本当にちっぽけだ。その意味では、修士論文などエチュード(練習)にすぎない。教授に言われてなるほどと思ったのは「この論文に君の独創性など求めていない。アカデミズムの住民としての素養と精神を問われているだけだ」という言葉。本当にそのとおりだよな。その意味では最後まで僕は在野の事業家でアカデミズムの学徒になりきれなかったけど。

      第三に、本当に素晴らしい教授たちに出会えた(知り得た)こと。東大は素晴らしい天才と秀才がいる世界でもある。見田宗介先生がわずか修士論文!の時に書いて出版された『価値意識の理論―欲望と道徳の社会学』(1966年)(http://goo.gl/rj7EXv)を読んだ時には、天才でありながら秀才がいるものだと感動した。「現代思想」の 2016年1月臨時増刊号の◎総特集が『 見田宗介=真木悠介- 未来の社会学のために』(http://goo.gl/14ATwA)なので興味がある人はぜひ。理系では暦本純一先生(http://lab.rekimoto.org/members-2/rekimoto/)はどうだろう。20年前にすでにiPhoneで使われているタッチパネルを発明していた歴本先生は発想の前提からして他の科学者と違う。人間の機能を拡張・強化するコンピュータでなく、コンピュータが”人間自体を拡張する”という思想からはじめている。例えばマエストロの演奏をデータ化して人間の筋反射に与えることで、素人が最高の演奏をしうる。あるいは笑いかけないと開かない冷蔵庫はどうだろう?人間にある種の行動を強いることでその人間の感情を変える。感情が行動を決定するのではなく、行動が感情を決める、と彼は考える。人間が機械を使うのでなく、機械が人間を拡張する、と考える。そのずば抜けた発想と前提にある知識と技術が一体となって新しい製品をあっけなく実現してしまう。経済学では僕の指導教員の須藤修先生はどうだろう。80年代にはすでにネットワーク社会について精緻な分析と展望を示し(正直、同じ年齢25歳時点での処女作『ノイズと経済秩序』(http://goo.gl/6bEKaH)の内容には嫉妬する。)、現在は、国家的・社会的なプロジェクトを多数統括する社会政策家・プラクティショナーでもある。その他、本当に素晴らしい人々がいる(そうでない人もいる笑)。

      そういうわけで一段落しましたが、2年間(正味2ヶ月間)支えてくれた友達と会社の皆と、兄貴にまずはお礼を言いたいです。本当にありがとう。これから恩返ししますー(*´∀`)

      P,S 論文はまだ受理されていませんー。でも今日から禁酒を解禁しますー。


      近藤麻理恵は、なぜ部屋を片付けるのか? 〜自分とは何か?についての根本的な誤解について〜

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        2世紀にプトレマイオスが体系化した天動説から、16世紀のコペルニクスの登場まで、1500年という長きに渡って人々は「地球の周りを太陽が動いている」と信じてきた。しかし、現代では誰も太陽でなく、地球の方が動いていることを疑っていない。

        この現代において、ほとんどすべての人々が、自分とは肉体とその周りの意識の一部だと信じ抜いている。滑稽なことである。なぜなら本当の自分とは、広義には「全体」であり、狭義には「環境」であり、それは住む場所や付き合う人々や、部屋の状態、食する物であるからだ。あなたが自己と認知する肉体と精神はその結果にすぎない。我々が自分をそのように矮小化してしまうのは、自己を感知するセンサーを極めて表層的な五感の知覚に限定するからであり、それは原始的かつ本質的な我々の知覚能力を捨て、あるいは単純に忘れてしまっているからである。そのことによって我々は通常、意識の焦点を広大な知識体系と人類全体の記憶と体験という対象に向けることがない。愚かなことである。我々が意識の焦点をわずかに背後に移せば、そこに、考え・感じるという行為を行っている主体者の存在を確認することができる。しかし通常の我々は、考え・感じた「内容」をもって自己と認定してしまうのだ。意識の焦点を、考え・感じた内容という「結果」に当て、それを行っている主体という「原因」に意識を払うことがないのだ。また人との関係において、自己の心に湧き上がるものを是とし、それを生み出す目の前の相手の心に注意を払わない。そちらの方こそが本当の自己であるということを認知しないからである。
        つまるところ私が言いたいのは、我々は意識の焦点を広げ続けなければならないということだ。背後(悟り)に、隣人(愛)に、地(自然)に、天(使命)に。なぜならそれらの綜合こそが本来の自己であるからだ。

        「個人」という概念は、意識の境界を便宜的に表現したものにすぎないにも関わらず、あたかもそれが真実であるかのように定義され、現代の社会システムは個人とその権利を中心に設計されている。所有や民主主義など茶番にすぎない。意識の焦点を広く、深く広げてみよ。自分とは全体である、と識るだろう。いや、すくなくとも自分とは環境である、とその定義をわずかでも広範囲に認知し得たとき、我々の人生はすべてが変わり好転する。変えるべきは自分でなく環境であり、整えるべきは服でなく部屋であり、慮るべきは自己でなく目の前にいる他者であると明確に変わる。なぜならそれら周辺こそが本当の自分の姿だからである。

        洗練された空間や世界の中心都市に人が集うのも、近藤麻理恵の片付けが流行るのも、人に功徳を施す教えが絶えないのも、それら一般的に自分とみなされているものの「周辺」こそが、”本当の自分”であり、それら本当の自分を大事にすることは当然であるという理由に他ならない。片付けによって心がときめくのは、それ(部屋)が自己だからであり、当然の結果である。彼女は優しく真実を突く。

        脳神経科学や量子力学的な文脈からこの世界の多層次元性の解明が進むなかで、いずれ科学は「本当の自分」を明確な形で我々の前につきつけるだろう。それに対するガリレオ・ガリレイの教会裁判の悲劇と同様の試練を経て、人類はこの普遍的自己の存在を認めざるを得なくなることは想像に難くない。

        だがしかし、我々個人がガリレオの登場を待つ必要はない。天動説を誰も疑わないその時代において、紀元前3世紀からアリスタルコスは、すでに天体の観察から地動説を見抜いていた。一体、太陽が回っているのか?地球が回っているのか?どちらを信じるかを決めるのは現代において個々人の知性と精神にかかっているのである。


        財務分析の自由自在グラフ

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          (リリース)念願だった財務分析の自由自在グラフができました。誰でも簡単に、世界中の75000社のあらゆる財務分析グラフが簡単にでき、CSVでダウンロードもできます。まだデータなどに不備がある面もありますが、ぜひ使ってみて、フィードバックを頂戴できると幸いです。
          (*)無料です。
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          自由自在グラフ
          https://valuationmatrix.com/free_graph


          女性のキャリアと結婚について

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            最近の「10年後、世界が壊れても〜」の本を出してから、女性誌の取材を受けることがあり、いつも聞かれるのは、「結婚(制度)」「(女性の)キャリア」「(女性の)透明感」の3つだが、まず結婚制度については、自分自身は結婚していないからわからないと前置きした上で、これまで家族の構成人数は、70年代は7人、80年代は6人、90年代は5人、2000年代は4人、2010年は3人と減ってきているので、2020年には、平均2人(親子2人、夫婦2人か子供1人、単身者)になるだろう、だからコミュニティーの最小単位としての家族は期待しない方がいい、と答えている。家族「制度」よりも広い範囲で生活をシェアすべきだし、例えば子育てや介護の問題を家族内だけで解決しようとするのはもう無理だ。そういった意味で、現状の結婚「制度」を見据えながらも、男女のパートナーシップのあり方を真剣に学ぶ方が本質的な解決だ。事実婚やパックス制度もいずれ普及するからだ。女性のキャリアについていえば、一般男性が持っている会社に対する忠誠心に代替する職能が必要である。女性は、会社に対する忠誠心でなく、顧客に対する貢献心を徹底的に養うことで会社に縛られないプロフェッショナルとしてのキャリアを築くことができると説いている。男性の場合、どうしても縦社会の中で、顧客に尽くすよりも上司に尽くしてしまう傾向がまだ強い。女性は横社会のつながりや家庭を大事にするので、これまでの企業社会の中では、忠誠心の不足を盾に男性社会から排斥されてきた。しかし、企業の縦社会が機能しなくなった今、よいチャンスである。忠誠心の対象を上司でなく顧客に向けるのが女性のキャリアの作り方の基本である。最後の女性の透明感であるが、男性なら清潔感、女性なら透明感と言われるように、このミステリアスワードは明確な定義を持たずとも多くの人が納得し、求めている。堀北真希やガッキー、古くは広末涼子が代表である。その透明感はどこから出てくるのかといえば、化粧でも顔立ちでも髪型でもない。それは、意識の置き場ではないだろうか?透明感溢れる女性とは、邪念や私心が見えないということであり、その解決策は、やはり丁寧な生活の繰り返しと、仕事に対する真摯さの掛け合わせででてくるものではないだろうか。

            アイデアのある人は悩まない

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              頭がいいなぁ、と思う人はたくさんいるけれど、記憶とか頭の回転とかはもうAIで片付くからそういう頭の良さにはもはや興味ない。ウルトラクイズは終了したし、解答が存在する高校生クイズも時代遅れ。偏差値とか意味不明。

              最近、興味深いのは、二つのタイプの頭の良さです。
              一つは有機化・統合ができる人。一見、無関係な事象を結び付けて、まったく新しい一つの結論や解決策を作っちゃう人。こういう人は圧倒的な抽象思考力と広大な知識と教養、本質を見極める洞察力をもっている。

              しかし、すごいなー、と本当に思うのは、もう一つのタイプ。それは常に別の選択肢、つまり代替案を持っている人。先ほどの有機化力とは逆に分離化力があるんだ。

              堀江 貴文さんが典型的なその知的パターンで、宇宙開発事業ispaceの時になんどかお会いしただけだが、いつもそんなに優秀な部下がいるわけじゃない(失礼!)。でも彼はあまり気にしている風でもない。もちろんミスは注意するのだけどそれほど部下を詰めることもない。余裕がある。そこで彼の優秀さはなんだろう?と考えてみたのだけど、彼にはあまり執着がない、それは別に心がクリアとかではなくて(失礼!!)、「ああ、この人は、常に別の選択肢、つまり代替案をいくつも持っているからではないか?」と思うようになった。「想定内」という彼の言葉は一時流行ったけれど、まさにそれ。特にプロパーで起業家となった彼は失敗が常につきまとう。だから何か目的と手段を考えたら、失敗を前提にして、実行する前に、先に別の手段(代替案)をいくつか持つ「癖」がついているんじゃないだろうか?だから部下がミスしても別の方法があるからそこにスティック(執着)しない。そんな感じの印象を持った。ふつう、収監されるとなったらもう大変落ち込むだろうが、「だったら1000冊本でも読むか」と切り替えるのも、案をいくつも持っているからか。

              「アイデアがある人は悩まない」というのは僕が大好きな 言葉で、カヤック柳澤 大輔さんの言葉だが、それも同じ意。ほかの選択肢がある人は執着しないからハッピーでいられる。それこそ大切な知性なのではないか?どんなときでもたくさんの選択肢(代替案)を持ってから事にあたる習慣、身に着けたいですね。


              腹痛の夜

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                結局、病院には4つほど行ったのだがなかなかお腹の激痛が治らないと聞いて、僕らの代替医療チームのホリスティカのメンバーの一人が駆けつけて鍼灸をしてくれた。すると1ヶ月半も続いた腹痛がすーっと引いた。本当に一瞬の出来事だった。残念ながら完全に腹痛が消えた効果は半日ほどだったが明らかに快方に向かう。これに味をしめて?、今日は、いきつけの鍼灸治療院に行ってきた。鍼灸ってすごいんだな、と感動した。
                それにしても、病を通して人は内省するものだ。はじめは痛み、そして怒りと憎しみ、後悔、反省、感謝、ゆるしの順に心が進んでゆく。ゆるしにも流れがある。最初に人をゆるし、自分の偏りをゆるし、ゆるせなかった自分をゆるし、最後にすべてをゆるしてゆく。そのこころの動きが面白い。

                追伸
                さて人はどこまでも概念的な存在だと思う。人間とは何か?と定義するならば、今の僕は「人とは知識と経験と物質に吸着している意識の集合体」とする。そしてその自己を俯瞰的視座から観察するまた別の意識があることに気づく。連綿と続くこれら意識の流れこそがこの世界を形成する原理なのだと思う。その地点からみれば自然・人間・個人などの分断的概念はなにも意味をもたないのだ。おやすみなさい。


                承認欲求バブルの崩壊

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                  ここで書いていてなんだが^_^;、facebookは多くの人にとってはマイナスな存在になっている。いいね!を求める承認欲求バブルはインフレしすぎて限界を迎えている。もはや他人の(見せかけの)生活を映すタイムラインは、ストレスになるだろう。facebookはこれからメッセンジャーやログイン認証としてのみ残る。LINEがまさにメッセンジャーだが、これらはあくまでもリアルタイムのその場のやり取りに過ぎない。次に登場するコミュニケーションツールは、互いの信頼や絆を貯めてゆけるストック型メディアであってほしい。

                  「UFOの写真はなぜいつも画質が粗いのか?」

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                    「UFOの写真はなぜいつも画質が粗いのか?」

                    そのこたえは、もちろん「カメラの性能が低く、画質が荒かったからこそUFOが“存在できた”」からに他ならない。つまり作り物の写真がそれらしく見えた時代だっただけだ。今の高画質時代、誰もUFOの写真ネタなどメディアに出してこない。(もちろん僕はUFOが好きだけど)

                    物事はいつも逆から考えるから真相がみえる


                    アカデミズムの凋落

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                      今、アカデミズムの世界では、長期の思索や洞察に基づく本質的理論よりも、ライトな情報や数字をもとにしたエビデンス・ベースの論文の方が圧倒的に評価を得る仕組みになっている。しかし、このエビデンス(統計やファクトと言われる数字をもちいたもの)は恣意的かつ現象の一側面を表しているに過ぎないケースが多い。因果関係と相関関係の違いも正しく理解されていない。しかもファクトは常に移りゆく。世界は動的であり多次元的、多層的な要素の上に成り立っている。細分化された学術領域の一部の要素の相関関係を持って鬼の首をとったかのような論文が多産される現状はおかしい。

                      シビアな現実社会において、高い報酬をもらってビジネスを行う戦略ファームの本当のプロフェッショナルから見ると今のアカデミズムのエビデンスのゆるさ・浅はかさは嘲笑の的になっている。

                      エビデンスベースの良さは単にその数字のわかりやすさにある。しかし、わかりやすさと真実とは関係がない。アカデミズムがエビデンス・ベースに寄る傾向は、学者の洞察的リテラシーが年々低下しているからに他ならない。迎合してはならない。残念ながら統計学は最強の学問ではない。学者はもっと自分の頭を使って考え抜かなければならない。


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