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近藤麻理恵は、なぜ部屋を片付けるのか? 〜自分とは何か?についての根本的な誤解について〜

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    2世紀にプトレマイオスが体系化した天動説から、16世紀のコペルニクスの登場まで、1500年という長きに渡って人々は「地球の周りを太陽が動いている」と信じてきた。しかし、現代では誰も太陽でなく、地球の方が動いていることを疑っていない。

    この現代において、ほとんどすべての人々が、自分とは肉体とその周りの意識の一部だと信じ抜いている。滑稽なことである。なぜなら本当の自分とは、広義には「全体」であり、狭義には「環境」であり、それは住む場所や付き合う人々や、部屋の状態、食する物であるからだ。あなたが自己と認知する肉体と精神はその結果にすぎない。我々が自分をそのように矮小化してしまうのは、自己を感知するセンサーを極めて表層的な五感の知覚に限定するからであり、それは原始的かつ本質的な我々の知覚能力を捨て、あるいは単純に忘れてしまっているからである。そのことによって我々は通常、意識の焦点を広大な知識体系と人類全体の記憶と体験という対象に向けることがない。愚かなことである。我々が意識の焦点をわずかに背後に移せば、そこに、考え・感じるという行為を行っている主体者の存在を確認することができる。しかし通常の我々は、考え・感じた「内容」をもって自己と認定してしまうのだ。意識の焦点を、考え・感じた内容という「結果」に当て、それを行っている主体という「原因」に意識を払うことがないのだ。また人との関係において、自己の心に湧き上がるものを是とし、それを生み出す目の前の相手の心に注意を払わない。そちらの方こそが本当の自己であるということを認知しないからである。
    つまるところ私が言いたいのは、我々は意識の焦点を広げ続けなければならないということだ。背後(悟り)に、隣人(愛)に、地(自然)に、天(使命)に。なぜならそれらの綜合こそが本来の自己であるからだ。

    「個人」という概念は、意識の境界を便宜的に表現したものにすぎないにも関わらず、あたかもそれが真実であるかのように定義され、現代の社会システムは個人とその権利を中心に設計されている。所有や民主主義など茶番にすぎない。意識の焦点を広く、深く広げてみよ。自分とは全体である、と識るだろう。いや、すくなくとも自分とは環境である、とその定義をわずかでも広範囲に認知し得たとき、我々の人生はすべてが変わり好転する。変えるべきは自分でなく環境であり、整えるべきは服でなく部屋であり、慮るべきは自己でなく目の前にいる他者であると明確に変わる。なぜならそれら周辺こそが本当の自分の姿だからである。

    洗練された空間や世界の中心都市に人が集うのも、近藤麻理恵の片付けが流行るのも、人に功徳を施す教えが絶えないのも、それら一般的に自分とみなされているものの「周辺」こそが、”本当の自分”であり、それら本当の自分を大事にすることは当然であるという理由に他ならない。片付けによって心がときめくのは、それ(部屋)が自己だからであり、当然の結果である。彼女は優しく真実を突く。

    脳神経科学や量子力学的な文脈からこの世界の多層次元性の解明が進むなかで、いずれ科学は「本当の自分」を明確な形で我々の前につきつけるだろう。それに対するガリレオ・ガリレイの教会裁判の悲劇と同様の試練を経て、人類はこの普遍的自己の存在を認めざるを得なくなることは想像に難くない。

    だがしかし、我々個人がガリレオの登場を待つ必要はない。天動説を誰も疑わないその時代において、紀元前3世紀からアリスタルコスは、すでに天体の観察から地動説を見抜いていた。一体、太陽が回っているのか?地球が回っているのか?どちらを信じるかを決めるのは現代において個々人の知性と精神にかかっているのである。


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